大阪ソーダ
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代表取締役
社長執行役員

寺田 健志

(1988年新卒入社)

考える。行動する。
結果はすべて、自分の中に生まれる
「情熱」の先にあった。

考える。行動する。
結果はすべて、自分の中に
生まれる「情熱」の先にあった。

キャリアストーリー

入社前

京都大学 工学部
石油化学科

触媒の分野にて、一酸化炭素など炭素原子を含む物質から化学物質を生成する「C1ケミカル」の研究に携わる。

1年目

開発職としてキャリアをスタート

学生時代の研究内容を活かし研究開発の分野へ。4年目以降はポリエチレンと塩素の置換反応に関する研究に従事し、新製品の上市にもつながった。

5年目

開発職から技術営業職へ
キャリアチェンジ

これまでの開発職としての経験を活かし、営業活動に従事。特殊ポリマーの販売を担当。

11年目

タイおよびドイツでの
海外駐在生活

タイ・バンコクで新たなビジネスモデルを構築し、顧客を開拓するなど、着実に実績を積み上げる。一時帰国したのち、18年目からはドイツ・デュッセルドルフに駐在。

22年目

基礎化学品、
機能化学品の営業を担当

帰国後は国内の営業部を変遷しながら大阪ソーダ製品の販路拡大を担う。

30年目

代表取締役 社長執行役員 就任

2012年からは事業部を離れ、執行役員として大阪ソーダの経営を担う立場となり、そして30年目に前社長から後任を託されるかたちで社長に就任。

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Episode 01

「ほんまに大阪の
会社やなあ…」
関西出身の役員の
THE・関西な雰囲気に
惚れ込み入社。

学生時代は化学を専攻しており「触媒」分野、特に「C1ケミカル」と呼ばれる、一酸化炭素(二酸化炭素)などからアルコールを生成し、エネルギー分野に応用されるような研究に携わっていました。大阪ソーダを知ることになったのも、その研究室でお世話になった教授の推薦がきっかけでしたね。他にも化学メーカーの紹介はありましたが、大阪ソーダの面接の時にいた関西出身の役員の話口が「ほんまに大阪人やなあ」と。これは自分の肌に合うと直感的に感じたことが、入社の大きな決め手になりました。

入社後は開発職としてキャリアをスタートさせ、4年目には新製品や既存製品の新規グレードの開発に携わることに。そこで新規製品の開発から製造開始までを経験できたことが、自分にとって一つの大きな実績になりました。実はこの新規製品、ポリエチレンと塩素の置換反応を応用した新製品だったのですが、大学の研究室で携わっていたものとは全く異なる領域の研究開発だったんです。そうした未経験の分野でも勉強しながら、積極的に携わることのできる環境があったことが、結果的に後々のキャリアにも活かされることになりました。

Episode 02

「あんまり気を落とさず
頑張ってくれ」。
キャリア5年目にして
「技術営業」という
未知の世界へ。

辞令を受けて、開発職から営業職へ異動に。機能化学品事業の営業部に所属し、営業としてのキャリアがスタートしました。最初は「知らない人と会話するなんて自分にはとても…」と憂鬱でしたが、今となっては自分の適性を見たうえでの辞令だったと、営業としてのキャリアが合っていたんだと感じています。当時の社長と、関わりのあった母校の教授との会話のなかでも「彼はどう考えてもまとめ役が向いているだろう」という話があったようで、やはり見ている人は見ているものですね。
配属となった営業部は、上司をはじめ所属する社員それぞれが個性のかたまりみたいなもので、さしずめ「人種のるつぼ」のようでした。仕事終わりには食事にも連れていってもらいながら、そんな人たちに囲まれるサラリーマン生活も悪くないと感じるように。今となっては昔話ですが、そんな営業職ならではの楽しみを感じはじめてからは少しずつ「こういう世界も面白い」と思えるようになりましたね。ちなみに、当時の私は「大阪流」で、とにかく本音で向き合うことをモットーにしていました。それをずっと続けていたからか、お客様をはじめまわりの方々も可愛がってくれたことを覚えています。

Episode 03

海外赴任で気付いた、
情熱を燃やす仕事の
面白さ。

1990年代後半、日本企業の多くが白物家電やブラウン管テレビの生産・販売拠点を海外、特に東南アジアに移していました。一方、当社は管理職でないと海外出張ができない時代で、周囲から完全に出遅れていました。当時主任だった私は「その市場に売り込みをかけるべきだ、出張に行かせてほしい」と、上長や経営陣に直談判。前例のないことでしたが、その情熱が通じて出張の許可が下り、その後の海外赴任につながったわけです。着任後は、事務所の開設はもちろん、当社製品の提案活動も全て自分で試行錯誤をする毎日でした。当社製品を現地メーカーに持ち込み、技術指導をしながら家電用パーツに仕上げて、それを

日系家電メーカーに評価してもらう。そうした提案活動を自らデザインし、各社とパートナーシップを構築していくことに充実感を持っていましたし、これまで当社で誰も成し遂げなかったことを初めて挑戦させてもらえた、任せてもらえたということが素直にうれしかったですね。当時の私の原動力にもなりました。情熱を燃やすことの面白さを体感したのもこの頃です。その後、タイ国内の情勢と事業環境の悪化で駐在員事務所は撤退しましたが、当社の海外展開における基礎を自らが築いていたという自負を持っています。

1990年代後半、日本企業の多くが白物家電やブラウン管テレビの生産・販売拠点を海外、特に東南アジアに移していました。一方、当社は管理職でないと海外出張ができない時代で、周囲から完全に出遅れていました。当時主任だった私は「その市場に売り込みをかけるべきだ、出張に行かせてほしい」と、上長や経営陣に直談判。前例のないことでしたが、その情熱が通じて出張の許可が下り、その後の海外赴任につながったわけです。着任後は、事務所の開設はもちろん、当社製品の提案活動も全て自分で試行錯誤をする毎日でした。当社製品を現地メーカーに持ち込み、技術指導をしながら家電用パーツに仕上げて、それを日系家電メーカーに評価してもらう。そうした提案活動を自らデザインし、各社とパートナーシップを構築していくことに充実感を持っていましたし、これまで当社で誰も成し遂げなかったことを初めて挑戦させてもらえた、任せてもらえたということが素直にうれしかったですね。当時の私の原動力にもなりました。情熱を燃やすことの面白さを体感したのもこの頃です。その後、タイ国内の情勢と事業環境の悪化で駐在員事務所は撤退しましたが、当社の海外展開における基礎を自らが築いていたという自負を持っています。

就活生へのメッセージ

スピード感を持って
仕事を進めていける。
そんな環境を存分に
活かして
活躍する
社員に出会いたい。

ドイツ駐在や国内事業部の営業を経て、経営に関わるようになったわけですが、社長になった今でも「自ら動く」スタンスはずっと変わっていないですね。社内議論の場では、役職ではなく役割で仕事をすることを重視し、垣根なく意見交換できるよう常に意識しています。かつて私が「for the company」の視点で発言したことを受け入れ、「やってみなはれ精神」で挑戦させてくれた経営陣の懐の深さが、今の私を育ててくれましたから。

現在は経営の立場から「社員が存分に実力を発揮できる会社」を目指し、チャレンジできる環境の整備をさらに進めています。若手社員には、是々非々で議論できる社内環境はもちろん、スピード感のある経営判断や社員の仕事のやりがいを引き出す評価制度といった、この会社のフィールドを活かして成長していってほしいですね。仕事への情熱を燃やし、広い視野で世界に向かって挑戦する、そんな想いを持った方々と出会えることを楽しみにしています。

番外編:私の好きな化学式

C3H5ClO
(エピクロルヒドリン)

エピクロルヒドリンは当社の基幹製品であり、この化学式が持つエポキシ基は、反応性に富み、さまざまな誘導体への展開が可能です。実際に、それら誘導体は多岐にわたる用途で使用され、社会に貢献しています。レジリエントに未来への展開を目指す当社とイメージが重なり愛着を持っています。

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